それは深奥にして心奥、避けて通ることは叶わぬもの 6
「はい、アブソル、綺麗になったわよ。」
ブラッシングをしてさらさらになったアブソルの毛並みをハルカは撫でる。
アブソルは礼を言うように一声鳴いた。
ここはハルカが練習場所と決めた町外れの雪原。
ハルカは太陽光の下で、アブソルの手入れをしていた。
「今回のグランドフェスティバルはオープンステージだから、どれだけここの環境に適応できるかが試されるわ。その点、あなたは最高かも。」
アブソルの純白の毛並みは太陽光に反射してキラキラ輝いている。
「グランドフェスティバル、晴れるといいわね。」
ハルカは明後日に迫ったグランドフェスティバルに思いを馳せる。
今まで自分が出場してきた大会は、どれも暖かい地方だったりドームがあったりして、天気や気候に左右されるということは無かった。
シンオウならではの寒さと雪を攻略できるか否か。
それが勝負を分ける。
寒さと雪――そこに思い至って、ハルカは落ち込む。
「シュウ……。」
あれから5日も経つのに、シュウの熱はまだ引かなかった。
食事はルームサービルを頼んでいるようだから、ちゃんと摂っていると思われるが、それでもシュウのポケモン達を見る限り、あまり体調は思わしくないようだった。
だから、ハルカがシュウのポケモン達の世話をしている。
「ねえ、アブソル。シュウはちゃんと元気になってくれるかな……。」
ハルカは雪の上に座り込んで、アブソルの柔らかな毛並みに顔をうずめる。
「わたしがあんなことしたから、シュウが病気になっちゃった……。」
ハルカの声に涙がにじむ。
「ごめんなさい……アブソル、ごめんなさい……。」
あなたのパートナーにあんな酷いことをして。
シュウだけじゃなくてあなたまで悲しませて。
アブソルは顔を上げ、ハルカの涙を舌で掬う。
――どうしてこの人には分からないのだろう。
アブソルは思う。
愛する人に傷つけられたのはこの人の方なのに。
痛いのは裏切った方よりも裏切られた方なのに。
この人は血を流している自分の心よりも、ナイフで心を切り裂いた恋人を想って泣いている。
そのナイフは自分が持たせたものだと思って。
持たせたのはこの人でも、使ったのは彼なのに。
どうしてこの人には分からないのだろう。
そうやって泣くことが恋人を一番苦しめることに。
その涙が恋人と同じものだということに。
アブソルはハルカの頬を舐め続けた。
「ア・ン・タ・ねぇー!」
どれくらい泣き続けただろうか、アブソルに何度も涙をぬぐってもらっていると、唐突に声がした。
「またこんな所で泣いてるの!?本当に凍死するわよ!」
すぐ傍にハーリーが立っていた。
腰に手を当て、こちらを睨み付けている。
「気になって来てみれば案の定!アンタの辞書には反省という文字は無いの!?」
その言葉、そっくりそのままお返しします。
ハルカはシュウがここにいたらそう言うと思った。
そんなハルカに構わず、ハーリーはさらに大声を張り上げる。
「何でシュウ君は何もしないのよ!二人してウジウジウジウジ!!ああもう鬱陶しい!」
ハーリーは指を突きつける。
「グランドフェスティバルは明後日なのよ!アンタ達、その自覚ないでしょう!体調やポケモンの毛並みだけ整えてりゃいいってもんじゃないのよ!」
そのまま顔まで近づけてくる。
「心の状態が一番演技に影響するってことはアンタも知ってることでしょう!アンタ、やる気あるの!?」
「……。」
ハルカはその言葉に俯く。
それはよく知っている。
5年前からずっとコンテストに出てきたから。
心がどう影響するかということも彼に教わった――そう、彼に。
「ああもう!泣くなって言ってるでしょうがー!」
「だって……。」
シュウはもう傍にいてくれない。
拒絶されてしまった。させてしまった。
シュウがいないと、自分はこんなに弱い。
「だーっ!何でアタシはこんなバカに関わってるのよ!アタシだって出場するのに!」
ハーリーは頭をかきむしる。
「とにかくアンタとシュウ君が大人しいと気色悪いのよ!これでアタシが誰かに負けたりしたらアンタ達のせいだからね!」
「優しいのね、ハーリーさん。」
落ち着いた女性の声がした。
いつの間にか、後ろに人が立っていた。
ハルカは座り込んだまま、その顔を見上げる。
「サオリさん……?」
それはトップコーディネーターの一人にして、ハルカとシュウのライバルであるサオリだった。
「あーら、アナタもグランドフェスティバルに出るの?」
「ええ。この町には昨日着いたばかり。少し遅れてしまったわ。」
サオリは笑顔でハーリーに応対する。
「ちょうど良かったわ。もう子守も飽きてきたところだったの。アナタに任せるわ。」
サオリの返事も聞かず、ハーリーは二人に背を向けて歩き出す。
数歩進んだところでクルリと振り向いた。
「ハルカ!これが原因で二人とも予選落ちなんてしたら許さないわよ!アンタ達はアタシが潰すんだから!」
ハーリーはドスドスと雪を踏みしめ――脚を半分埋めながら去っていった。
「相変わらず面白い人ね、ハーリーさんは。」
サオリはクスクスと笑いながら、ハーリーを見送る。
その後姿が見えなくなったところで、ハルカと視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「ハルカさん、久しぶりね。」
「……はい。」
サオリの顔が見られない。
今の自分は酷い顔をしているだろう。
それにシュウと一緒にいない理由を聞かれるのが――途方もなく怖い。
「ねえ、ハルカさん。」
サオリの声が聞こえてくる。
「今からお姉さんと温泉に入らない?」
「……は?」
思わず顔を上げると、ニッコリ微笑んでいるサオリの顔があった。
「やっぱり、温泉は天然に限るわね。」
髪をまとめて露天風呂に浸かっているサオリの隣で、ハルカは今の状況を考える。
どうして、わたしは温泉なんかに入っているんだろう。
手を引かれて行った先は、自分達の泊まっているホテルで――サオリもここに泊まっているらしい。
着替えを取ってくるように言われたから、部屋に戻って取ってきたら、機嫌良く脱衣所に連れ込まれて。
そうしてわけの分からない内に、何故か二人並んで温泉に浸かっている。
「でも何で温泉……?」
疑問が口に出た。
「あら、お姉さんの誘いに乗ってくれたんじゃないの?」
サオリが笑いながらこちらを向く。
ハルカはその目の中に、笑いだけでない光を見た。
「心配してくれてるんですね……。」
ここ数日ポケモン達が浮かべている光と同じだった。
ハルカの目に、ここ数日止まる気配を見せない涙が浮かぶ。
「ハルカさんはいい子ね。」
いきなり目の前が真っ暗になる。
突然、サオリに抱きしめられたハルカは泣くのも忘れ、もがいていた。
「ちょ、サオリさん、苦しっ!」
顔に押し付けられた胸に息ができない。
しばらくハルカを抱きしめていたサオリは名残惜しそうにハルカを放した。
しかし、ハルカの頭に手を置いて撫でている。
「どうしてわたしがいい子なんですか?みんなに心配かけてばっかりなのに……。」
ポケモン達にも、意地悪だけどハーリーさんにも。
「あら、みんながあなたのことを心配するのは当然よ。私だって心配だわ。」
サオリは事も無げに言う。
「一番心配なのはね、心配させてくれない人なのよ。ハルカさんは違うじゃない。ちゃんと皆の前で泣くし、心配されていることを受け入れてくれているわ。」
だから、ハルカさんはいい子なの。
サオリの言葉にハルカは少しだけ笑う。
久しぶりに本当に笑ったような気がした。
「その点、シュウ君は悪い子ね。自分の殻に閉じこもって外を見ようとしない。」
シュウの名前が出たことに、ハルカはビクつく。
笑顔も引っ込んでしまった。
「どうしてシュウ君には分からないのかしらね。」
サオリの手がハルカの頬に下りてくる。
「私達が皆で心配するよりも、シュウ君が傍にいてあげる方がずっといいのに。」
「サオリさん……!」
「いいのよ、何も言わなくて。」
サオリはハルカの目にたまっていた涙をぬぐう。
「これだって本当はシュウ君の役目なのにね。でも、今だけは私がしてあげるわ。シュウ君があなたの傍に来るまでね。」
「ありがとうございます……。」
ハルカはサオリに縋り付いて、また少しだけ泣いた。