棘のもたらすものは痛みだけでなく
「シュウ、何で怒ってるの?」
ハルカの言葉にシュウは目を細めた。
「怒ってるように見えるかい?」
窓を覆うカーテンが一本の光の筋を描く。
その光はハルカの頬を白く浮かび上がらせた。
「見える。」
「どうして?」
「だって、シュウ、怒ってなきゃこんなことしない。」
保健室のベッドに組み敷いたハルカを見下ろしながら、シュウは微かに笑った。
「どうしてぼくが怒ってるんだと思う?」
細い手首をシーツに押し付けながら訊くと、ハルカはシュウの目を真っ直ぐ見つめた。
「きっとシュウはつまらないことで怒ってる。でも、シュウにとってそれはつまらないことじゃない。だから、わたしにぶつけてる。」
男に押し倒されているというのに冷静な言葉。
シュウはクスクス笑う。
「本当に君は賢い。いつも感情で動いているようにしか見えないのに、その実、相手や自分の思考を分析することに長けている。」
ぼくほどではないけどね。
そう言うと、ハルカは初めて不快げに眉を寄せた。
「あなたが怒ってる理由が分からないのなら賢いなんて言われても皮肉にしか聞こえないわ。」
「そうだよ、これは皮肉だ。君は賢いけど真っ直ぐすぎる。ずる賢くなれない。」
「そうね、あなたはとてもずる賢い人だったわ。」
いつもより低い声で話すハルカが目を逸らした。
その時、ふと思いついて、眉間にしわを刻むハルカに口付ける。
深く深く、何度も角度を変えて、その舌を絡めて吸い上げて。
唇を離すと、銀糸が差し込む日の光でキラキラ輝いた。
「抵抗しないんだね。」
シュウは改めて気付く。
「このベッドに組み敷いたときの君はだいたい抵抗するのが常なんだけど。」
白く清潔なシーツ、押さえつけた四肢、一方的なキス。
土曜の課外授業が終わってかなり経っているのでほとんどの生徒は帰ってしまっているが、二人は残っていた。
この主のいない保健室に。
「そう……。」
ハルカが目を伏せる。
「だったら、あなたは嫉妬してるのね。わたしを犯さずにはいられない程に。」
「正解。」
伏せた目を上げ、再び自分を見つめるハルカにシュウはニコリと微笑みかけた。
課外授業の直後、シュウはハルカが教室を出てどこかへ向かうのを目撃した。
もちろん、それだけなら別に何と言うことも無いいつもの光景。
しかし、その後姿から窺える雰囲気が違っていた。
どう違うのかと言われると説明に困るその雰囲気。
しかし、シュウはその雰囲気を知っていた。
だから、シュウは教室から生徒がほとんど出て行っても、ハルカを待っていた。
しばらくして戻ってきたハルカと売店で買った昼食を一緒に食べ、その後のハルカとの会話に相槌を打ち。
ハルカにとってはいつもの自分と何ら変わりなく映っただろう。
しかし、腹の内は違っていた。
ハルカが壁に掛けられた時計を見て会話に夢中で時間を忘れていたことに気付いたのがついさっき。
そろそろ帰ろうということで鞄を持って教室を出た。
その時に、シュウは寄る所があるからとハルカを誘い。
そうしてこのベッドに押し倒した。
「わたしが誰に告白されたのか気になるの?」
「別に。」
その他大勢の男なんて興味の対象にならない。
「だったら、あなたはわたしが告白されるために誰かに会ってきたのが不愉快なのね。」
ハルカがじっとこちらの顔を見つめてくる。
「相手の気持ちをきちんと受け止めて、その上で自分の気持ちを伝えること。これは大切なことだとあなたも知っているはずなのに。」
「知ってるよ、もちろん。」
だから、シュウも告白されたときは誠意を持って相手に伝えている。
自分の本当の気持ちを。
「それでも嫌なんだ、君が行ってしまうのは。」
「わたしが断ると分かっているのに?あなたはわたしを信じていないの?」
「信じているよ、ハルカ。君がぼくを愛していると。」
シュウはハルカの白い首筋に顔を近づける。
軽く歯を立てて口付けると、ハルカが小さく声を漏らした。
「ハルカ、君がぼくに君の愛を全て捧げてくれていると信じている。」
吸い上げて赤く残したキスマークを何度も舐める。
その度にハルカの体は揺れた。
「……わたしがあなたを信じているように?」
上がりかけている息を抑えるようにハルカが喉の奥で言う。
「そう、君がぼくを信じて、ぼくが相手に自分の意思を伝えに行くのを阻まないように。」
「……あなたは時々邪魔をするけれど。」
「それが君への背信だと思うかい?」
「……思わない。」
ハルカが腕に力を込めたのを感じて、シュウは身を起こし、一本だけ腕を解放する。
ハルカの手が今まで自分を拘束していた相手に伸びた。
「相手に誠意を持って伝えるというのは大切なこと。でも、それは自らの感情と相反するもの。だって、伝えるためとはいえ、その人が自分を好いている人間の所に行ってしまうということなんだから。」
頬に当てられた優しい手にシュウは目を細める。
「理性で自分を押さえ込むか、感情を爆発させて引き止めるか。それはどちらも愛と呼べるのではないかしら?」
その手は頬を何度も撫でる。
「わたしはあなたを引き止めたことは無いけれど、引き止めたいと思わないわけじゃない。あなたはわたしを引き止めることはあるけれど、それはわたしを愛しているから。」
シュウはその手を自分の手で覆う。
「ハルカ、嫉妬とは何のためにあるんだと思う?」
「分からないわ。」
あっさり放たれた言葉にシュウは笑う。
「君ならぼくに答えをくれると思ったのに。」
「シュウこそ、わたしより賢いんだったら、自分の感情でも分析してみればいいんじゃない?」
それが出来たら、嫉妬という感情はこの世から無くなるのではないかとシュウは思う。
愛しているから信じている。
しかし、愛しているから嫉妬してしまうのだ。
信じている、自分が愛した人を。
しかし、それでもこの感情は抑えられない。
信じていればいるほど嫉妬は大きくふくらんでいく。
愛しているから。
「醜いと思うかい?君を信じているのに嫉妬に狂って君を犯そうとするぼくが。」
「……少なくとも、美しくないわね。」
ふとハルカが微笑む。
「でも、愛は美しいばかりじゃないと教えてくれたのもあなた。頑なに美しくあろうとしたら、愛は育つ前に枯れてしまう。」
その微笑みは息を呑むほどに美しいものだった。
「あなたは薔薇のような人。美しい花をわたしに捧げるくせに、棘で傷つけずにはいられない。だって、美しい花も鋭い棘も薔薇の一部だから。その二つが揃ってこそ、薔薇は薔薇でいられる。」
「もし美しい花だけだったら?」
「信じるだけならいつか信じられなくなる。何を信じているのか自分でも分からなくなってしまうから。」
随分と抽象的な言い回しをするものだ。
シュウはクスクス笑う。
彼女とこんな風にベッドの上で言葉遊びをするのがシュウは好きだった。
「だって、信じていることは相手に伝わりにくいんだもの。伝わったと思っていても伝わっていないことは沢山あるの。」
「だからこそ、棘が必要?」
「そうね。棘で相手を傷つけて初めて相手は美しい花が何を考えているのか悟るわ。薔薇は口を開かない。だから、棘で傷つけることによって愛していると伝える。」
「じゃあ、君は嫉妬は愛のために存在しているのだと思う?」
「鋭い棘で傷つけてばかりだと、相手は愛を愛と受け取ってくれないけれど、それでもただ花を咲かせるよりは伝わりやすいかも。」
こんな風に。
ハルカはシュウの頬から手を離し、もう片方の拘束されたままの手首に当てる。
「あなたがわたしを送り出してくれるのも愛しているから。でも、わたしは今日あなたが送り出してくれたことなんて気付かなかった。だって、追いかけてでも引き止めたいという思いを抑えて見送ってくれたことはそのままでは伝わらないのだから。」
ハルカは自分の手首を押さえつけるシュウの手を優しく撫でる。
「こうして嫉妬されて初めてあなたが何を考えて何を伝えようとしているのかが分かる。あなたはわたしを愛している。」
「そう、ぼくは君を愛している。君がぼくを愛しているのと同じように。」
シュウは解放していたハルカの手を掴んで再びシーツに押さえつける。
「信じているよ、ハルカ。だから、こんな風に嫉妬できるんだ。信じていない相手に嫉妬することなんて無いんだから。」
ゆっくりと、確実に力を込めて放さないように、離れないように。
「そして、君を棘で貫いても、君はぼくを嫌わないだろう。棘のある花と知っていて薔薇に惚れたのは君なんだから。」
ハルカはその言葉にふと笑う。
「そうね。わたしは薔薇を愛しているの。美しい花だけ愛して棘を嫌ってるなんてことは無いわ。花も棘も、あなたの全てを愛している。」
「それは嬉しいね。」
薔薇と称されたシュウは薔薇と同じくらいに気高い恋人に口付ける。
触れるだけのキスの後、シュウは微笑んだ。
「ハルカ、ぼくの想いを君に伝えるよ。丁寧に、ゆっくり時間を掛けて。」
その言葉を最後に、薔薇は恋人を愛した。