新緑の森のダンジョン 9
「シュウ、あのね……、聞きたいことがあるの。」
夕食もお風呂も終わって後は寝るだけになった夜の結構遅い時間。
ソファーで本を読んでたシュウは顔を上げた。
「何だい、ハルカ?」
わたしはシュウの座ってるソファーに近づく。
「あのね、あの……。」
なかなか言い出せない。
それでもシュウはわたしが言えるようになるのを待っていてくれた。
「隣、座ってもいい……?」
でも、口から出たのは全く関係ない言葉。
「ああ、いいよ。」
シュウもそれは分かってるんだろうけど、快く頷いてくれた。
ポスリとシュウの隣に腰掛ける。
気付かれないよう注意しながらシュウの顔に視線を送った。
シュウは真剣な顔で本を読んでいる。
目が文字を追って動いているのが分かった。
ページをめくる音だけが響く。
その横顔を見ていたはずなのに、気がついたらシュウの唇を見つめている自分がいた。
思わず顔を背けてしまう。
……アブソルにあんなこと言われたせいかもしれない。
わたしとシュウが昼寝から目覚めると、もう夕方近くだった。
あくびをしながら、シュウの部屋からリビングに移動する。
すると、ソファーの前でアブソルが待っていた。
「どうしたの、アブソル?」
”シュウさんは……?”
キョロキョロしながらシュウを探している。
「買って来た調味料なんかを整理するってキッチンにいるわよ。用があるなら呼んでこようか?」
”いえ、シュウさんがいない方が好都合です。私はあなたに用があるので。”
「え?用って何?」
”まあ、ソファーにでも腰掛けてください。少し長めの話ですから。”
言われた通りソファーに座ると、アブソルが話し出した。
”いきなりですが本題に入らせていただきます。ハルカさん、あなたはあのおまじないを本気で信じてるんですか?”
「え、信じるって……。」
”よく眠れるなんて嘘だと思わなかったんですか?”
そういえば、昼間みんながおまじないなんて嘘だって話してたっけ。
「でも……シュウがそのおまじないしてくれたら、ホントに安心するの。どんなに不安でもシュウが抱きしめてくれるからすぐ眠れちゃうの。」
”なるほど……。”
アブソルはため息をついた。
”図らずとも、あなたの信頼のおかげでシュウさんの嘘が真になっている訳ですね。”
でも、アブソルはフッて笑った。
”シュウさんにそうされて嫌ではないのならいいんです。もうあなたは人間ですから。人間の本能でシュウさんを受け入れているんでしょう。”
「本能……?」
”あなたがおまじないと信じているあれは人間の求愛行動です。”
「きゅ、求愛!?」
わたしは思わず立ち上がった。
シュウはわたしに求愛してたの……?
混乱してるわたしを見て、アブソルはさらに笑っていた。
”本当に微笑ましいですね、あなたは。”
だから飽きないんですけど、とアブソルは続ける。
”シュウさんはあなたが好きです。その好きは彼が昔好きだったエネコに対する好きとは明らかに違います。”
アブソルはわたしの隣に飛び乗った。
”彼はそのエネコには恋愛感情は持っていなかった。だから、そのエネコと自分を比べてはいけませんよ。あなたのことだから彼に聞いたんでしょう?”
「どうして分かったの……?」
”昼間の様子から、あなたがそのエネコを意識しているのは丸分かりでしたから。”
アブソルは目を楽しそうに瞬かせている。
”あなたは彼の中で一番になりたかったんですね。”
「うっ……。」
アブソルが至近距離からキラキラ光る目で見つめてくる。
その目は何だかわたしをからかう目だった。
シュウと同じ……。
”またシュウさんのことを考えてるんですね。”
「うう……。」
ソファーから立ち上がって逃げたい衝動にかられる。
アブソルはそれを見抜いてるからソファーに上がってきたんだろうけど。
”あのエネコもあなたもシュウさんの中では特別なんですよ。それぞれ違う特別です。比べようがない。”
アブソルはわたしの膝に前足をかける。
”ハッキリ言えることはただ一つ。彼の思い出のエネコに関係なく、彼の心を占める「あなた」の存在は大きい。”
顔を近づけてきた。
”彼の中で「あなた」は無くてはならない存在になっています。”
「あ、あの、アブソル……。」
それは少しでも顔を動かせばおまじないが出来てしまいそうな距離で。
アブソルに教えてもらったことよりも、そっちの方が気になって。
いつの間にかアブソルの目は真剣そのものになっていた。
”おまじない、私にもしていただけますか?”
「え、えと……。」
わたしは思わず身を引く。
その分だけアブソルは近づいてくる。
”それとも、私がしてあげましょうか?”
アブソルはわたしの隣にいる。
そっちから顔を離していけば、体も横に離れるわけで。
でも、膝を押さえられているから体そのものは動けなくて。
いつの間にか、わたしの背中にはソファーの柔らかい感触があった。
上にはアブソルの赤い瞳。
”あなたが心安らかでいられるように。”
迫ってくる赤が怖くて、わたしはぎゅっと目を閉じる。
いや……助けて……。
「シュウ……。」
その時、わたしの耳にアブソルのクスクス笑いが聞こえてきた。
目を開けると、アブソルの顔はさっきよりもずっと上にあった。
”困らせてしまったようですね、すみません。”
アブソルがソファーから飛び降りた。
”ここまでするつもりは無かったのですが、あなたがあんまりにも可愛いものですからつい。あなたはからかい甲斐があっていいですね。”
「またシュウみたいなこと言う……。」
わたしは手を付いてソファーから起き上がった。
アブソルはそんなわたしを面白がるように見つめる。
”今回はあなたに助言に来ただけだったんですけどね。まあ、悪戯が吉と出たので良しとしましょう。”
「吉……?」
アブソルがとても楽しそうに笑った。
”あなたにシュウさん以外には求愛したくないしされたくないとハッキリ自覚させることが出来た。予想以上の収穫です。”
アブソルはリビングから出ようとした。
「えっ!アブソル、もう帰っちゃうの!?」
”あとは彼とあなたで話し合うなり何なりしてください。でも、悪戯ついでにもう一つ。”
クルリと振り向いた顔は宣言通り何かを企んでるような顔で。
”自覚してしまったら、シュウさんの唇が気になって仕方なくなりますよ。”
……アブソルの意地悪。
あそこまでしておいて、あとは二人で話し合えだなんて。
もう少しどうすればいいのか教えてくれても良かったのに。
それから、アブソルが最後に言ったこと。
もう一度、シュウの顔をこっそり見てみる。
やっぱり、目に入るのは彼の唇だけ。
シュウの唇が気になって気になって仕方ない。
アブソルがあんなこと言うから、彼の顔を見られなくなってしまった。
俯いて目をぎゅっとつぶる。
でも、シュウの顔を見なくても、シュウの息遣いや体温が隣にあるのが感じられて。
唇の柔らかさや温かな吐息を思い出してしまって。
シュウが気になって仕方が無い。
……アブソルのバカ。
そこまで考えた時、パタンという音が隣でした。
思わずそっちを見ると、本を閉じたシュウとバッチリ目が合ってしまった。
彼の視線に縫いとめられて顔を動かせない。
「ハルカ、さっきからどうしたんだい?いつもと様子が違う。」
シュウはわたしに手を伸ばす。
「やっぱり外で寝てたから風邪を引いたんじゃないのか?顔も赤くなってる。」
頬に添えられた手、その仕草は彼におまじないをされた時のことを思い出させた。
「やっ!」
気がついたら、シュウの手を振り払ってしまっていた。
彼はわたしが叩いた手を呆然と押さえている。
「あ、あの、違うの!」
自分のしたことがどんなことだったか今更ながら分かって思わず焦る。
「……いや、ぼくがいない方がいいみたいだね。」
シュウはそう言うと立ち上がった。
どうしてそんな顔するの?
何でそんなに寂しそうなの?
そんな顔しないで……わたしの好きな顔じゃない。
わたしは彼の袖を掴んだ。
「違うの、本当に……。ちょっとビックリしただけなの……。」
声が震える。
シュウの顔を見るのが怖い。
それでも必死にシュウを見上げていると、シュウはまた隣に座ってくれた。
「ハルカ、そんな泣きそうな顔をしないでくれ。ちゃんといるから。」
シュウはまたわたしの頬に手の平を当てた。
でも、はっと気付いたように手を引っ込めようとしたから、わたしは慌ててその手を掴んだ。
「違うの……シュウに触られるのが嫌なわけじゃないの……。」
わたしは両手でシュウの手を握った。
そうしないと、シュウの手が逃げてしまうような気がしたから。
シュウはずっとわたしを見つめている。
その目の奥にあるのは心配や不安なんかで。
それを見つめ返している内に、シュウが何を心配して、何を不安に思っているのか分かってしまった。
「わたしはシュウを嫌いになんかなってないから。シュウのこと大好きだから。」
だから、安心して。
わたしはそう伝えられたと思ったのに、シュウの目はますます暗くなってしまった。
「シュウ……?」
「大好き、か……。」
シュウは呟くように言う。
彼はわたしが掴んでいた手も離してしまった。
「そんなことは知ってるよ……。」
何だか嫌われたのがショックというように聞こえる。
もちろん、聞こえるだけで、彼はそんなこと言ってないのだけれど。
……違う、「嫌われたのがショック」なんじゃなくて、「好かれてないのが痛い」なんだ。
「シュウ、わたし、シュウのこと好きよ。」
わたしがそう言うと、彼は悲しそうに俯いた。
「分かってるよ……。君がぼくのことを好いてくれてるのは……。」
「分かってないじゃない。シュウ、勘違いしてる。」
そう、シュウは勘違いしている。
シュウはわたしの好きが彼の好きと違うと思ってる。
わたしはシュウの頬を両手で包んだ。
ソファーに膝立ちして、両手を添えた彼の顔を見つめる。
「わたしはこういう意味で好きだって言ってるの。」
わたしはシュウの唇に自分の唇を重ねた。
少し目を開けると、彼の見開かれた目が見えた。
もう一度目を閉じて、彼の唇だけを感じる。
どうしてこれがおまじないなんて思えたんだろうと不思議になるくらいドキドキした。
唇を離すと、シュウは唖然とした顔でこっちを見つめていた。
「……人が必死の思いで伝えたのに何よ、その顔は。」
「どうして……。」
シュウは、わたしがまだおまじないを信じ込んでると思ってる。
だから、混乱してるんだ。
おまじないを信じていた時は、一度もわたしからシュウにしたことは無かったから。
「アブソルが教えてくれたの。これはおまじないなんかじゃないって。人間の求愛行動だって。」
その言葉にシュウは観念したようにため息をついた。
「バレてしまったのか……。」
シュウはわたしの両手首を握って、自分の頬からわたしの手を外した。
「そうだよ。これは人間の言葉でキスと言う。キスは元々親愛を表すものだけど、愛を告白する場合は相手の唇にするんだ。」
「……ずるいよ、シュウ。」
「何が?」
シュウの目にはさっきまでの不安なんかは欠片も無い。
いつもの余裕が戻ってきていた。
もしかして、開き直ってるのだろうか。
とても悔しい気がする。
「キスがこんなにドキドキするものだって知らなかった。キスがこんなに気持ちいいものだなんて知らなかった。なのに、シュウだけ知ってた。」
「そう、ぼくは知っていた。」
シュウは頷く。
「君にキスをするのがどんなに幸せか知ってた。だからこそ、君にキスできなくなるのが怖かった。君はぼくに恋をしていないだろうと思っていたからね。」
シュウは握っているわたしの手を彼の顔に近づける。
「だから、おまじないという嘘をついた。君がそれを信じている限り、ぼくは君に口付けることが出来たから。」
シュウの唇が手の甲に触れる。
ピクリと肩が跳ねた。
「でもね、ハルカ。」
シュウが手の甲に触れたまま続ける。
唇が動くとくすぐったくてたまらない。
「本当はずっと君にぼくと同じ気持ちでキスしてほしかったんだよ。」
シュウは手首を離して、私の頬を包む。
ソファーに座り込んだわたしは、さっきとは逆にシュウを見上げる形になった。
「君はぼくのキスを受け入れてくれるかい?」
シュウはもうわたしの答えを知っているような口調で質問してきた。
「あなたがわたしのキスを受け入れてくれるのなら。」
「もちろんだよ。」
わたし達は互いに口付け合った。
あれから何度もキスして、キスする度に頭の芯がぼんやりしてきて。
気がついたら、わたしは彼に抱きしめられていた。
頭はぼんやりしてるのに、胸はドキドキと激しく打っている。
その対比がとても心地良かった。
「アブソルにお礼言わないと……。」
こんな気持ちになれるよう教えてくれたのはアブソルだから。
意地悪とかバカとか思ってごめん、アブソル。
「そういえば、アブソルから聞いたって言ってたね。君にぼくに対する恋愛感情を自覚させたのは大したものだと思うよ。」
シュウが思い出したようにため息をつく。
「君はぼくに恋をしていたかもしれないけど、全くそれに気付いていなかったからね。少しでも気付いていたら、恥ずかしくて出来ないようなことばかりしてきたりして。」
「ホント、アブソルのおかげかも。アブソルにキスされかけて気付いたの。」
「……アブソルにキス?」
「そうよ。シュウ以外にはキスしたくないし、キスされたくないって。……シュウ?」
見上げたシュウの顔に表情は無かった。
でも、腰に回った手に力が入ったような気がする。
「あ、あの、シュウ?」
その無表情の中から、彼の瞳に変化が現れた。
何だか光ってるような……昼間のアブソルみたいなキラキラじゃなくて、どっちかと言うとギラギラ?
「んっ!?」
いきなり後頭部に手を回されて、唇を重ねられた。
思わず身を引こうとしたら、シュウに体を引き寄せられて、逆にシュウに密着する形になって。
唇を割ってザラリとした柔らかいものが入ってきたから何だろうと思ってたら、それはシュウの舌だった。
シュウは私の口の中でやりたい放題暴れている。
キスってただ唇を重ねるだけじゃなかったの……?
唇を離された時、わたしの息は上がり切っていた。
「……君はぼく以外とキスしなくていいんだ。」
「だからしてないって!されかけたけど!」
されかけたのはわたしのせいじゃなくて、アブソルが悪いと思う。
「じゃあ聞くけど、君は本当にアブソルにキスされかけただけ?アブソル以外とキスしたこと無かった?」
彼はあったと決め付けるような口調で言う。
「アブソルは賢い。実際は外れたけど、君が警戒心なくキスを受け入れるような確信が無ければ、例え冗談でもキスしようなんて思わないはずだ。」
「だから無いって――。」
そこでふと思い出す。
今日の昼間、みんなとモモンの木の下で話してた時のことを。
「そういえば、ロゼリアが眠いって言ってたから、おまじないしてあげようとしたかも……。」
思わず口にして、はっと気がついたけどもう遅かった。
わたしを抱きしめるシュウの力は痛い程になっていた。
「いや、でも、それはおまじないなんて嘘ついてたシュウが悪いんだし!」
「そうだね、ぼくが悪いね。」
いきなり力が緩められる。
見上げた彼の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
……でも、目がギラギラしたままのような気がする。
「ちゃんと君の唇に教えてあげるよ、本当のキスの意味を。タップリとね。」
「え、それはちょっと!」
「ちゃんと教えなかったぼくが悪いんだろう?おわびに真実を教えてあげるよ。」
いつの間にか、顎に手を掛けられていた。
しかも、ガッチリと。
「ハルカ、もうぼくにしかキスしちゃダメだよ。」
わたしの唇は彼に飲み込まれた。
……シュウにキスされるのは嬉しいんだけど。
でも、眩暈がするくらいのキスはちょっと困る。
「分かった?」
アブソルにキスされかけて、ロゼリアにキスしかけたとバレてからかなり経って。
シュウがにこにこと笑いながら、わたしの顎を持ち上げる。
キスはちょっと困る。
シュウの言うことなら何でも叶えたくなる。
頷くしかなくなってしまう。
そこまで幸せな気分にされるのはちょっと困る。
またこの幸せを味わいたくなってしまうから。
……やっぱり、アブソルは意地悪かも。
全部分かっててあんなこと言ったんだ。
「それから、キスしてる時は、ぼくのこと以外考えるのも禁止だよ。」
「んんっ!」
シュウはとても嬉しそうにわたしに口付けた。