新緑の森のダンジョン 3

 

 

 

 

 

 



ぼくが彼女を見つけたのは一週間前のことだった。

この季節にしては珍しく雲一つない良い天気。

普段からあまり寒くないけど、その日は暖かいくらいだった。

昼間、森を散歩していたら、木があまり生えていない少し開けた場所に倒れていた。

注意深く近寄ってじっと観察してみる。

普通の格好をした普通の女の子のようだった。

少なくとも、怪しそうには見えない。

こんな森の奥に倒れているというのは怪しいことこの上ないけど。

だから、慎重に起こしてみた。

そうしたら、普通どころかとんでもない女の子だった。

彼女は記憶喪失の上に、自分をポケモンだと言い張る変人だった。

とりあえず、家に連れ帰って詳しい事情を聞いてみる。

彼女は人間になる前はエネコだったと言った。

エネコか……ぼくのエネコのイメージと彼女はピッタリだった。

だから、少し本当かもしれないと思った。

同時に、彼女に興味が湧いた。

いいじゃないか、彼女は人間じゃなくてエネコなんだし。

ポケモンなら信用できる。

ぼくは彼女を家に置くことにした。

名前も付けた。

彼女の名前はハルカ。

ぼく達はその日から一緒に暮らし始めた。






ハルカと一緒に暮らした一週間で分かったこと。

ハルカは本当にポケモンだった。

人間として育てられていないというのが主な根拠。

ハルカは何も知らなかった。そう、何も。

例えば、見つけた時、ハルカは二本足で立って歩こうとしなかった。

人間として育てられていたら、そんなことは有り得ない。

どれだけ記憶を失ったとしても、そういうことは体が覚えているからだ。

一度泳げるようになったら、長い間泳いでなくても、水に入ればまた泳げるように。

それから、ハルカは人間の食べ物や食べ方も知らなかった。

ぼくがいつも食べている物は森で採って来た物や、家の庭で育てた物。

それを調理して食べるんだけど、彼女はその食べ物もスプーンやフォークも知らなかった。

その他、お風呂の入り方、歯の磨き方、眠り方、文字の読み方など、人間生活のあらゆる一般常識が欠落していた。

野生児として育った人間の話は聞いたことがある。

小さい頃に行方不明になった子どもがポケモンに育てられたとか。

彼女は決定的に違う。

ハルカは人間だったことが一度も無かった。




「ハルカ、どこだい?」

ぼくは家の中に彼女がいないので外を探していた。

もうすぐ雨が降るから、彼女を家に入れてやらないといけない。

ハルカは体調管理に無頓着だから、すぐに風邪を引いてしまいそうだ。

でも、家の周りの果樹園や畑を探してもどこにもいなかった。

だとしたらあそこだろうか。

心当たりのある場所へ向かって森を進む。

案の定、ハルカはぼくが彼女を見つけた場所にいた。

草の上に座り、アブソルにもたれて本を読んでいる。

「ハルカ。」

ぼくが呼びかけると、ハルカはパッと顔を輝かせた。

「シュウ!どうしたの?」

本から顔を上げてこちらを見つめてくる。

最初の頃、警戒されていたのが嘘のようだ。

「その本、面白いのかい?」

本題はまだ時間があるから後回しにして、ぼくは気になったことを聞いてみる。

「うん!知らなかったことがいっぱい書いてあるんだもの!」

ハルカが嬉しそうにその本のページをめくる。

本のタイトルは、「ポケモンの進化 石の波長」。

純粋な学術書だ。

人間ではなかったハルカは、今でも人間離れしていた。

ハルカは恐ろしく物覚えが良かったのだ。

歩き方もテーブルマナーも文字すらも、一度教えただけですぐに覚えてしまった。

覚える時にまごつくことはあっても、一度できてしまえばもうそれを自分のものにしている。

そんなことは普通では有り得ない。

特に文字なんかは反復練習無しで使えるようになる人間なんていない。

言葉と同じように、繰り返して覚えないと自分のものに出来ない。

しかし、彼女はすぐにこんな難しい本まで読めるようになってしまった。

そういえば、彼女は最初に会った時からおかしかった。

人間の常識は何も知らないのに、人間の言葉だけは話していた。

しかも、それを自分の言葉として。

逆にポケモンの言葉を話せなくなって。

それでもハルカはポケモンと仲が良いのだけれど。

今だって、ぼく以外には絶対に懐かなかったアブソルに触れている。

ハルカはポケモン達とハッキリした会話は出来なくなったけど、なんとなく意思疎通は出来ているらしい。

話すことが出来ないのは大きいけど、聞く方の感覚は失われてないみたいだから。

ぼくはハルカの隣に座って、同じようにアブソルにもたれる。

アブソルの純白の毛並みはとても柔らかかった。

夢中で本を読んでいるハルカを眺める。

人間の言葉は人間になったからと言って簡単に話せるようにはならない。

誰かが教えなくては絶対に話せるようにはならない。

彼女の言う「覚えているではなく知っている」というものなら話は早いのだが。

だから彼女はポケモンの言葉が分かるのだろう、知っているから。

しかし、その「知る」にしたって、仲間のポケモンの言葉を聞くからこそ、ポケモンはポケモン同士会話できるようになるのだ。

人間の子どもが親の言葉を聞いて言葉を覚えるのと同じように。

「覚えている」を遥かに凌駕したものを「知っている」というのではないだろうか。

例えて言うなら、脳に刷り込まれた記憶。

これだけ大きな記憶喪失になっても消えない程の思い出。

疑問は、だったら誰がハルカに言葉を教えたのかに戻ってくる。

ハルカに嵌められたアブソルの毛並みと同じ色の首輪が目に留まる。

もしかしたら、彼女のトレーナーは彼女に人間の言葉を教えていたのかもしれない。

いや、教えていたという表現は間違いか。

彼女はポケモン達の言葉を覚えるのと同じように、トレーナーの話す言葉を覚えたのだ。

舌や声帯の違いで話せるようにならなかっただけで。

人間になった途端、ポケモンの時に覚えた人間の言葉をペラペラ話せるようになるのかは疑問だけど、彼女なら不可能ではないかもしれない。

ハルカは変わってるから。

「そういえばシュウ。」

突然ハルカがこちらを向いた。

ぼんやりと彼女を眺めていたぼくは驚く。

彼女はそんなぼくに構わず続けた。

「わたしを探してたんでしょう?何か用事があったんじゃないの?」

そうだった、忘れていた。

「ああ、もうすぐ雨が降るから迎えに来たんだよ。」

「えっ!こんなに晴れてるのに?」

ぼくは頷いて空を指差す。

「ああいう形の雲が出てきたら、もうすぐ雨が降るってことなんだよ。」

ハルカはぼくの示した方角を見上げた。

「へーっ、シュウ、物知りなのねー。」

「常識だよ、人間だけじゃなくてポケモンにも。」

アブソルの顔を見ると、アブソルも心得たように頷く。

ハルカはまだ空を見上げていた。

……もしかして、ハルカは箱入り娘だったのだろうか。

家の中で暮らしていて、外の世界を全く知らない座敷エネコ。

小説なんかだと、そんな生活が嫌になって家を飛び出したエネコは、沢山の仲間と出会い大冒険をする。

しかし、ハルカの場合、知らない内に人間に姿を変え、記憶喪失になった挙句、見ず知らずの人間の男に一緒に暮らそうと言われ、なし崩し的に同居生活。

物語としては失格だ。

でも、登場人物の一人としては、この物語も結構気に入っている。

「何笑ってるのよ?」

いつの間にかハルカが空ではなくこちらを見つめていた。

「いや、別に。」

笑って誤魔化す。

ハルカが来てから、よく笑うようになった気がする。

「そろそろ帰ろうか。」

ぼくは立ち上がってハルカに手を差し出した。

ハルカはぼくの手を握って立ち上がる。

ハルカは手を離すと、アブソルに向き直った。

「アブソル、ありがとう。雨が降りそうなのに、わたしと一緒にいてくれて。」

アブソルは身を起こして一声鳴くと、森の中に駆け去っていった。

ぼくもハルカと一緒に家に帰っていった。




「ねえ、シュウ。」

さっきまで窓から雨を眺めていたハルカが、ぼくの座るソファーに歩いてくる。

「何読んでるの?」

ハルカの興味はコロコロ変わる。

動く物を何でも追いかける、そんなところは本当にエネコみたいだった。

エネコみたいも何も、ハルカはエネコなんだけど。

「さっきまでわたしが読んでた本?」

ハルカが後ろからぼくの手元を覗き込む。

「ああ、久しぶりに読んでみたけど、結構面白いね。」

「やっぱり、久しぶりに読むと面白さが違う?」

「ああ、特に君がいるからね。」

ぼくの読んでいるページはエネコの進化についてのページ。

エネコは月の石でエネコロロに進化する。

ハルカをじっと見つめる。

エネコロロのイメージは、いつもすましていて気位の高い、そこが可愛いと評判のポケモン。

ぼくの知ってるエネコは、一時も落ち着かなくて、好奇心旺盛で、何でもかんでも追いかける、明るくてやんちゃなポケモンだった。

やっぱり、ハルカはエネコだ。

エネコロロよりもエネコの方がいい。

ハルカはぼくの視線をじっと見つめ返していたが、やがて面白いことを思いついたかのように離れた。

「シュウ、わたしも本読んでいい?」

「ああ、どれでも好きな本を読むといい。」

「ありがとう、シュウ!」

ハルカはパタパタ足音を立てながら隣の部屋へ向かう。

「シュウ、いっぱい本持ってるから、どれにしようか迷っちゃうかもー。」

ハルカの弾んだ声が聞こえてきた。

ぼくは声を出さずに笑う。

いっぱいだなんて、たったの数百冊だ。

この森で暮らす前はもっと沢山持っていた。

でも、本を見たことが無かったハルカには、それだけでも沢山に見えるのだろう。

珍しい物が大好きな彼女はやっぱりエネコだ。




夕食の時、ハルカはぼくの顔をちらちら見ていた。

それに気付かない振りをしていたけど、どうもハルカの落ち着きが無くなっていく。

スープをこぼされる前に、ハルカの疑問に答えてやるべきだろうか。

「何か気になることでもあるのかい?」

ハルカはビックリしたように目を見開く。

「どうして分かったの?」

「君ね、そんな目立つことをしておきながらバレてないと思っていたのかい?」

まあ、そう思い込ませたのはぼくなんだけど。

「何か聞きたいことでもあるのかい?」

「うん……まあ……。」

ハルカにしては珍しく歯切れが悪い。

しばらくためらっていたが、思い切ったようにこちらを見据えた。

「シュウはどうしてこんな深い森に一人で住んでるの?」

ほら、きた。

そろそろこの手の話題が出る頃だと思ってたんだ。

「どうしてそんなことを気にしてるんだい?」

まあ、ハルカのことだから、自分が寂しいのは嫌だから、ぼくもそうなんだろうと思っているのだろうけど。

「ええと……シュウ、寂しいんじゃないかと思って。わたしも独りぼっちは嫌だし。」

ここまで大当たりだと笑えてくる。

しかし、そんなぼくに気付かず、ハルカは続けた。

「それに、あの本に書いてあったの。人間がどんな生活をしているか。」

ハルカがソファーを示す。

その上には、「人間とポケモンの社会学 〜都会での在り方〜」と書かれた分厚い本が置いてあった。

なるほど、本を読んで疑問を強めたのか。

このエネコの好奇心は大したものだと思う。

「都会みたいな騒がしい所が嫌いで、一人暮らしが好きだから。」

ぼくはすらすらと用意していた答えを口にする。

「……と言ったら信じるかい?」

「信じない。」

キッパリとハルカは言い切った。

「騒がしいのが嫌いならわたしみたいなのも嫌いだろうし、一人暮らしが好きなら一緒に暮らそうなんて言わないわ。」

ハルカは真剣な目をしている。

「何より、それが本当でも、こんな森の奥で暮らす必要はないわ。人間が嫌いでも、人間を頼らないで生きていくなんて、人間には出来ない。」

「その通り。でも、ぼくは人間を頼らずに生活している。だから、君は疑問を持っている。」

ハルカはコクリと頷いた。

賢いけれど、このエネコは純粋過ぎるね。

そんな疑問を持ってしまったら、気にせずにはいられなくなるだろうに。

「別に、人間を頼っていないわけじゃないよ。ぼくだってたまには町へ行く。数ヶ月に一度だけど。」

色々な生活必需品を揃えなくちゃいけないからね。

人並みの生活をするには、やっぱり自分だけでは限界があるし。

「ぼくがここに住んでいるのは人に会いたくないから。ぼくは人に関わりたくないんだ。」

人は酷いことを平気でするから。

「だから、都会みたいに人が沢山いる所が嫌いで、誰にも会わないでいられるよう深い森の奥で一人で暮らすのが好きなんだよ。」

ハルカがぼくの答えに納得していないのが一目で分かる。

「じゃあ、わたしと一緒に暮らそうって言ったのは、わたしが自分のことをポケモンだって言ったから?」

「正確にはエネコだったからだね。」

ぼくはエネコが好きだし。

ハルカはその答えに拍子抜けしたような顔をした。

「……シュウ、実はいい加減な性格?」

「自分では几帳面だと思ってるけどね。少し投げやりになっているのかもしれないな。」

やっぱり、ポケモン達が遊びに来てくれると言っても、一人は寂しいものだから。

ちょっと気に入っただけで、元ポケモン現人間の女の子と一緒に暮らすのは、この暮らしを何とか変えたかったからかもしれない。

ハルカはしばらくぼくを見つめていたが、諦めたように視線を逸らして食事を再開した。

これ以上粘っても、自分の欲しい答えは出てこないと判断したんだろう。

正解だよ、ハルカ。

ぼくは誰かに聞かれたとしても言う気は無いけれど、特に君には絶対に言わない。

ぼくは君を気に入っているんだから。

ぼく達は黙々と食事を続けた。

 

 

 

 

 

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