新緑の森のダンジョン 14

 

 

 

 

 

 



全てを覆い隠すほどの雨が容赦なく体温を奪っていく。

まだ春になり切っていないこの時期にこんな薄着で雨に打たれるなんて彼が見たら何て言うだろう。

また風邪を引いてしまうよと言われるだろうか。

わたしは自嘲気味に口の端を上げた。

もう彼にそんなことを言われることは有り得ない。

わたしは彼を置いて逃げ出した。




濡れて滑りやすくなった草の上を急ぎ足で歩く。

彼が目覚めるのは時間の問題だろう。

追いつかれたら引き止められてしまう。

引き止められてしまったら逆らえる自信はない。

わたしは今でも彼と一緒にいたいと望んでいるのだから。




わたしはエネコだった。

彼が大好きで、彼に頭を撫でてもらうのが大好きなエネコだった。

ふと笑いが込み上げる。

覚えていない頃はそのエネコに嫉妬したこともあった。

彼の心を独り占めしていたエネコに。

何のことはない、わたしは自分に嫉妬していた。

彼の言う通り、比べることに意味なんて無かった。

エネコだった頃と今では違いすぎるほどに違う。

エネコだった頃はただ彼を好きでいられた。

ずっと無邪気なまま、彼に懐いていられた。

人間の姿になっても心はエネコだった頃のまま、ただ彼だけを追いかけていられた。

いつから変わってしまったんだろう。

わたしは女になってしまった。

女として彼を愛してしまった。

女として彼に愛されたいと願ってしまった。

もう戻れない。

女として彼と愛し合うことを知らなかった頃には。

この森に来てからずっと嵌められていた首輪に触れる。

きっとこれにはわたしの記憶を甦らせる仕掛けでも組み込まれていたのだろう。

わたしの命すらも左右するような何かと一緒に。

ハーリーさんのやり方はよく知ってる。

ずっと見てきたから。

そのやり方で彼が苦しんできたところもずっと。

ハーリーさんはこの首輪でわたしを人質にとった。

わたしはまた彼を苦しめる存在になってしまった。

もうわたしは彼の傍にいてはいけない。

わたしは足早に森の中を歩いていった。




突然視界が開けた。

木のあまり生えていないちょっとした広場みたいな場所。

そこは少し前に彼やポケモン達と一緒にピクニックに来た所だった。

わたしが枯れ木と勘違いした木はちゃんとそこにあった。

その木に歩み寄る。

「また一緒に見ようって約束したのに、一緒に見られなくなっちゃったね……。」

花の蕾は前に見た時よりも大きくなっている。

もうすぐ、もうすぐわたしの大好きな色の花が咲くのだろう。

初めて見た別の世界。

そこで初めて見たのと同じ花。

わたしはこの世界に来てはいけなかった。

彼を追いかけてきてはいけなかった。

去らなくては、一刻も早く。

わたしは木に背を向け歩き出そうとした。

でも出来なかった。

いつの間にか、わたしは囲まれていた。

4人のポケモンに。




”まさか、あなたがこんな真似をするなんてね。”

ロゼリアが真正面からわたしを睨みつける。

”エネコらしくないねぇ。逃げ出すなんて。”

バタフリーが穏やかな口調の中にも憤りを交えて言ってくる。

”君、自分の行動が何を招くのか分かってなさすぎ。”

羽が濡れると上手く飛べなくなるはずのアメモースがその触覚と同じくらい怖い顔をして平然と宙に浮いている。

”目覚めたら今までそこにあった温もりが無くなっている。それがどれだけ彼を悲しませるか分からないあなたではないでしょうに。”

アブソルの赤い瞳は怒ってギラついていた。

「あなた達は……。」

わたしは後ずさった。

背中に木の幹が当たる。

「あの研究所の……。」

わたしは彼らを知っていた。

あの研究所で試行錯誤の末に失敗作の烙印を押されたポケモン達。

それぞれが肉体や頭脳の能力を大幅に強化された普通では有り得ないポケモン。

わたしと同じポケモン。

「生きていたの……?」

わたしが研究対象になる前、研究の最終候補とされたポケモンが5人いた。

でも、わたしがやってきてから、彼らはもう必要無いとみなされ、廃棄処分の命令があったはずだった。

”あの人がかくまってくれたの。”

頭脳と同じく体までも強化され、通常よりも遥かに大きくなったロゼリアが言う。

”データを書き換えて処分したと見せかけて、こっそりあの人の元で生かしてくれた。”

”だから、シュウさんはぼくらの命の恩人。もっとも、彼はぼくらに酷いことした張本人だけどね。”

ただのバタフリーを軽く凌駕する知恵と力強い羽を持つバタフリーが続けた。

”でも恨んでいないよ。それは仕方の無いことだったし、何より今ぼくらは生きている。それが全て。”

どんな環境にも耐えうる羽と冷静な判断力を兼ね備えたアメモースが前に出る。

”君、シュウさんのこと考えてるようで考えてなさすぎ。”

最後に強靭な脚と明晰な頭脳を持ったアブソルがわたしを見据えた。

わたしがいなければ、最後に残ったのはアブソルだったかもしれない。

”彼はあなたに心の全てを注ぎました。そんなあなたを失うわけにはいきません。彼のために、あなたには彼の元へ戻っていただきます。”

みんなはじりじりと輪を狭めてくる。

わたしは背中が痛くなるほど幹に張り付いていたけど、だんだん怒りが込み上げてきた。

「どうして……っ!」

拳を幹に叩きつける。

「どうして放っておいてくれないの!?わたしが傍にいたら、シュウを苦しめるって分かりきってるじゃない!わたしはシュウと一緒にいちゃいけないの!」

”それでも!”

アブソルが吼える。

”それでもあなたは彼の傍にいなくてはいけない!エネコだったあなたを手放して、彼は笑えなくなった!今は違う!あなたがいなくなれば彼は死んでしまう!”

「そんなのただの憶測よ!わたしには関係ない!」

”憶測などではありません!心を失ったら、肉体も長くは生きられない!私達は彼の恩に報いなくてはならない!”

「恩返しなんてアブソル達の勝手じゃない!わたしを巻き込まないでよ!」

”だったら、あなたはどうすると言うの?”

激昂したアブソルとわたしの言い争いを見ていたロゼリアが冷静に言う。

アブソルと同じくらい怒ってるのは目を見れば分かるけど。

”あなたとあの人の行動は全て人工衛星から監視されているの。あなたがどこまで逃げても、あの組織は必ずあなたを見つけ出すわ。そして、取引の材料にするだけよ。”

そんなことは分かってる。

行き詰まった研究成果のわたしが取引の材料にしかならないことくらい分かってる。

わたしを失っても、組織はこれまでのデータを使って、わたしと同レベルの存在までなら作り出せるだろうから。

命令を聞かないわたしに価値などありはしない。

それでも、取引の材料にするのなら、これ以上ないほど役に立つって分かってる。

わたしは彼を縛る首輪でしかない。

”まさか、あなた……。”

ロゼリアがわたしの表情を読んで呆然と言う。

”死に場所を探していたの……?”

わたしが生きていたら、絶対に利用される。

わたしの存在が無くなれば、彼は苦しまなくてすむ。

わたしがいなくなったら彼は悲しむだろうけど、それでも時がいつか癒してくれると思うから。

だから、わたしはこの世界から出ていく。

”君、自分勝手すぎ。”

アメモースの触覚がぼんやり光る。

怒りのあまり力が漏れ出していた。

”それ聞いちゃうと、ぼく達どうしても止めたくなるんだよねぇ。”

バタフリーがこの場に似合わない軽い口調で言う。

口調だけで、その言葉に込められた感情はみんなに負けないくらい激しいけれど。

”とりあえず、一番穏便な方法がやって来たから、まずはそれを試してみようかなぁ。”

どういう意味?

わたしはバタフリーを見る。

バタフリーは空を見上げていた。

”やっと来た。遅いよ、フライゴン。”

”仕方ないっスよ!オイラ、まず森でシュウさん見つけて、それからハルカ嬢ちゃん見つけなきゃいけなかったんスから!”

フライゴンがシュウを乗せて降り立った。




「シュウ……。」

怖かった、シュウの顔を見るのが。

わたしはぎゅっと目をつぶる。

シュウが木の下で立ちすくんでいるわたしに近づいてくる気配がした。

「ハルカ……。」

シュウの声は予想に反してみんなと同じような怒りなんて無かった。

ただ消え入りそうな小さな声だった。

頬に氷のように冷たい手が当てられる。

「ぼくのこと、嫌いになった?」

「そんなことない!」

思わず目を開けてしまった。

シュウは今にも泣き出しそうな顔をしていた。

迷子になってしまった子どものような顔。

わたしに置いていかれて、必死でわたしを追いかけてきた顔。

怖い。

みんなが怒ってるのを見るよりもずっと怖い。

逃げたかった。

もう下がれないのに、わたしはまだ後ずさろうとしていた。

シュウはそんなわたしの心を感じ取ったのか、縋るように抱きついてきた。

「ハルカ、行かないでくれ……。お願いだ……ぼくを独りぼっちにしないでくれ……。」

痛いほどの力で抱きしめられる。

「君がいてくれるのなら、ぼくは何だってやるから……。どれだけ苦しんでもいい、君と一緒にいられるのなら……。」

「そんなのやだよ、シュウ……。」

でも、わたしは彼の体を押し返した。

「そんなことしたら、シュウは笑ってくれなくなる。わたしと一緒にいようとする限り、シュウは苦しい顔ばっかりすることになる。」

彼の力は強すぎて、少ししか押し返せなかったけど。

「シュウにそんな顔させるくらいなら、わたしなんていなくなればいい。わたしはこの綺麗な世界に来ちゃいけなかった。」

前にロゼリア達にシュウが森で暮らしている理由を聞いたことがある。

ロゼリアはこうも言った。

わたしが来てから、シュウが笑ってくれるようになって嬉しいって。

だから、シュウを笑わせてくれるわたしが大好きだって。

そのとき思った。

好きな人が笑ってくれないって痛いのかなって。

「わたしがシュウを笑えないようにしてしまうのなら、わたしはこの世界に存在しちゃいけないの。」

痛いなんてものじゃなかった。

痛い方がずっとずっとマシだった。

シュウが笑ってくれなくなる。

わたしがシュウを苦しめる。

わたしがシュウを笑えなくする。

考えただけで存在ごと消えたくなるような、そんな気持ちになる。

消えれば全てが無くなる。

彼の傍にいられる嬉しさも、彼が笑いかけてくれる喜びも、彼が愛してくれる幸せも、私の何もかもを飲み込む恐ろしい虚無。

絶望しか感じない、絶望すらも感じられない。

でも、彼の苦しみの全てをぬぐい去ってくれる虚無。

彼の苦しみそのものをこの世界から消し去ってくれる絶大な安心感。

「わたしがいなくなればあなたは笑える。あなたにはずっと笑っていてほしいの。」

その安心さえ手に入れば、わたしは何もいらない。

「君のいない世界で、君はぼくに笑えと言うのか……?」

ゆがむ彼の頬に手を添える。

「今は笑えなくても、いつかきっと笑えるようになるわ。あなたは優しい人。きっと世界が優しくしてくれる。」

「君がいなければ世界などないのに……。君がぼくの世界なのに……。」

彼の頬を優しく撫でる。

さっきまで怖かったのが嘘のように心が凪いでいる。

シュウにもわたしを止められないと分かったから。

シュウに止められてまで振り切れる自信が無かったけどもう大丈夫。

わたしは揺るがない。

全てはシュウへの想いだから。

でも、そうしたら、少しだけこの世界を去るのが寂しくなった。

シュウがわたしに見せてくれた世界はとても綺麗だったから。

この世界を忘れたくなかった、この世界に忘れられたくなかった。

「ねえ、シュウ。」

だから、わたしはわたしの世界にお願いすることにした。

「今夜一晩、思い出をちょうだい。わたしが笑ってあなたの中から消えていけるように。あなたが笑って生きていけるように。」

シュウはかぶりを振る。

「ぼくはそんな形で君を望んでいない。」

「でも、わたしは望んでいるの。これだけがわたしの望み。あなたにしか叶えられない。わたしを愛しているのなら叶えて……。」

わたしは彼の唇に自分の唇を重ねた。

雨に濡れた彼の唇は冷たかったけど、やっぱり柔らかくて優しかった。

 

 

 

 

 

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