新緑の森のダンジョン 1
何もない真っ暗な空間。
どっちが上でどっちが下かも分からない。
わたしはその中で眠っていた。
誰かの声がする。
起きろって言われているような感じ。
その声に意識が少しずつ浮上する。
わたしはゆっくりと目を開けた。
「大丈夫かい?」
ぼやけた視界に最初に入ってきたのは柔らかな新緑色。
何だろう……。
徐々に焦点が合っていく。
新緑色は風に揺れ、まばたきをしていた。
こちらを見下ろしている。
誰……?
そこで視界が晴れた。
新緑色の髪と目をした男の人がわたしの顔を覗き込んでいた。
わたしは起き上がって、ゆっくりと辺りを見回す。
周りには木が沢山生えている。
知らない森にわたしは倒れていた。
「君はどうしてこんな所に倒れていたんだい?」
男の人がしゃがんで、座り込んだわたしに視線を合わせて話しかけてくる。
どうして、この人はこんなに話しかけてくるんだろう。
返事したって分かるはずないのに。
「変わってる人……。」
「……目が覚めての第一声がそれか。」
男の人は呆れたように言った。
「こんな森の奥に平気でいるってこと自体、変わっていると言われても仕方ないけどね。それを言うなら君だって変わってるだろう?」
あれ?この人……。
「あなた、どうしてわたしの言葉が分かるの?」
「君がぼくと同じ言葉を話しているからだと思うけど?」
「あなた、人間なのに?」
男の人は変な顔をした。
「……君だって人間だろう?」
「へ?」
慌てて自分の体を見てみる。
赤い服を着ていた。
手足が長い。
顔の横に落ち葉色の髪が垂れている。
頭に手をやると、耳が上に生えていない代わりに布の感触があった。
「……わたしが人間?」
「どこからどう見ても人間だね。」
男の人が間髪入れず肯定する。
「……何で人間?」
「は?」
わたしは両手を持ち上げて眺める――前足だったはずの手を。
「何でわたし、人間になっちゃってるのぉ!?」
わたしは前は決して届かなかったはずの頭を抱えた。
「つまり、君はポケモンで、気がついたら人間の姿になっていたと……。」
男の人が椅子に座って腕を組む。
ここはこの人の家。
彼は混乱するわたしをここまで引っ張ってきたのだ。
「森の中で倒れていた女の子を見殺しにするのは目覚めが悪い。」というのがこの人の言い分。
……わたしは女の子なんだろうか。
メスだとは自分でも思うけど、子どもなのかどうかは分からない。
とりあえず、彼が言ってることは正しいので頷く。
「なのに、目がさめる前のことは何も覚えてないと。」
一応、わたしの説明した通りなので頷く。
説明と言っても、そのまま何も思い出せないと言っただけだけど。
「……信じられるわけないだろう。」
ああ、やっぱり信じてもらえなかった。
わたしだって、人間がポケモンになったって言われても信じられないし。
彼が眉間にしわを寄せてこちらを見つめる。
わたしは彼の正面の椅子に座らされていた。
床に座ろうとしたら、止められて椅子に座らされた。
「ポケモンが人間になるなんて非科学的だ。」
「そんなの、科学で証明されてないだけじゃない。実際に起こっちゃってるんだから仕方ないでしょう。」
わたしの言葉に、彼はぐっとつまる。
それでも、やっぱり納得してくれていないみたいで反論してきた。
「それに、君は何も覚えていないのに、ポケモンだったことは覚えているのか?それはおかしいじゃないか。」
「あなたは記憶を失ったことが無いから分からないのよ。自分が何者なのか思い出せなくても、自分が何なのかは分かるわ。」
わたしは森の中でしたように、自分の両手を眺める。
こんな風に自分の前足を眺めたことがあっただろうか。
無かった。だって、歩くには前足も使わなくちゃいけなかったから。
「わたしはポケモンだったの。それだけは間違いないわ。」
彼はテーブルに肘を突いて額を押さえる。
ため息をついて、またこちらを見た。
「……どのポケモン?」
「信じてくれるの!?」
わたしは思わず立ち上がる。
二本足で立ってるなんてまだ実感が湧かないけど、結構慣れてきた。
「まだ信じたわけじゃないよ。でも、君が嘘を言ってるようには見えないし、何より嘘を言う理由が無い。」
彼はもう一つため息をついた。
「敢えて変人扱いされて喜ぶ人間にも見えないしね。」
ああ、今度は変な人にされてる。
テーブルに突っ伏したくなってきた。
「で、どのポケモンなんだい?」
「……わかんないかも。」
「は?」
彼はポカンとしている。
「君、自分がポケモンだったのは分かるのに、どのポケモンだったのかは分からないのかい?」
「わたしは人間の呼び方でわたしが何なのか分からないって言ったのよ。」
少しだけムッとした。
「だって、ポケモンの名前なんて、人間が勝手に付けたものでしょう?わたし達は互いをそんな風に呼んでなかったわ。」
勢いがついてしまって止まらない。
「ポケモンにはポケモンの呼び方があるのよ。人間がポケモンに呼びかけるとき、名前を使い分けてるのは知ってる。でも、わたし達はそんな名前で呼びかけたりしなかった。」
そこで悲しくなった。
ポケモンの呼び方で互いを呼ぶと、人間の呼び方と全く違うことは知っている。
覚えているいないの話ではなく、知っている。
しかし、自分が誰に呼びかけていたのか思い出せない。
自分が何と呼ばれていたかは知っているのに。
一緒にいたはずのポケモン達の顔を一つも思い出せない。
「……確かに、ロゼリアやアブソルという名前は人間がポケモンの種類を見分ける手段として付けたものだ。」
彼は顎に手を当てて言う。
「それでも、君は人間から名前を呼ばれていたんじゃないのかい?」
「どうしてそう思うの?」
「それ。」
彼はわたしを指差した。
「首輪が付いてる。」
彼が指差したのはわたしの首。
触ってみると、硬い輪っかが嵌まっていた。
「その首輪は真っ白で何も書かれていないから、君が誰のポケモンかは分からない。でも、人間に種族名を呼ばれていたことは確かだ。」
指を下ろして彼は続ける。
「仮に個体名があったとしても、その人間が一度も種族名を口にしないなんてことは無いだろう。」
「……でも、覚えてないんだもの。」
人間と一緒にいたことがあったのかもしれない。
これはその人間が付けてくれたものなのかもしれない。
迷子にならないようにって。
でも、やっぱりダメだ。
仲間を何と呼んでいたのか思い出せないように、人間から何と呼ばれていたのかも思い出せない。
やっぱり、自分がポケモンだったことしか思い出せない。
「……ちょっと待ってて。」
彼は椅子から立って、別の部屋へ行ってしまった。
やることがないので、部屋を見回す。
結構広い部屋だった。
良く言えば片付いている、悪く言えば物が無い。
テーブルと椅子くらいしか無い。
椅子は二つあったけど、それだって木で出来た地味な物だ。
この家にはまだ他にも部屋があるみたいだけど、ここと似たようなものなんだろう。
彼はここで一人で暮らしているようだ。
かなり深そうな森の中で一人暮らし。
寂しくないんだろうか。
そんなことを考えていたら、彼が戻ってきた。
何かを抱えている。
「……君は最初床に座ろうとしていたね。」
「うん、それが当たり前だと思ってたし。」
「だったら、君は陸上のポケモンだ。」
彼は抱えていた物をペラペラめくる。
それは大きな本だった。
「そして、君はさっきから両手を気にしている。前足だったからかい?」
「うん、人間になってから視線が高い気がするかも。もう慣れたけど。」
「だったら、四本足で歩いて、あまり大きくないポケモン……。」
彼があるページを開いて、テーブルに乗せた。
「この中に君だったポケモンはいるかい?」
彼がわたしに示したのは沢山のポケモンの絵だった。
「ポケモン図鑑にも載ってないような新種のポケモンだったら困るけど。」
彼の言葉を聞きながら、わたしは本のページをめくっていく。
しばらくめくっている内に、ピンとくるものに当たった。
「これよ、これ!このポケモンがわたし!」
ある絵を指差した。
どれどれと彼がわたしの手元を覗き込む。
「エネコか……。」
一瞬、彼が変な顔をした。
どこが変なのかは分からなかったけど。
「まあ、あんまり落ち着きの無い所とかエネコっぽいね。」
「……それは全てのエネコに対する宣戦布告よ。」
「宣戦布告なんて言葉を知ってるのか。なかなか偉いね。」
彼がよしよしと頭を撫でてくる。
わたしがエネコだと知った途端、何だか馴れ馴れしくなったような気がする。
「じゃあ、君はポケモン達に何と呼ばれていたんだい?」
「……何でそんなこと聞きたがるの?人間のくせに。」
わたしの疑問が不思議だったのか、彼は目をパチクリさせる。
「だって、それが君の本当の名前だろう?それを知りたいのは当然じゃないか。」
「……人間なのに?」
「君、ぼくが人間だということにいやにこだわるね。そんなに人間が嫌いかい?」
わたしが人間を嫌ってる?
よく分からない、覚えてない。
でも、人間がわたしの名前を知りたがるのが不思議だった。
その名前で呼びかけたいんだろうか、彼は人間なのに。
疑問は尽きなかったけど、わたしは彼に名乗ろうと口を開く。
「……。」
「どうしたの?やっぱり思い出せないのかい?」
「……発音できない。」
ポケモンの頃のように話せない。
喉から声が出ない。
わたしは完全に人間になってしまっていた。
自分の名前すら口に出せない、人間に。
「そんなに落ち込まないで。」
彼がまたわたしの頭を撫でた。
「ぼくが新しい名前を付けてあげるから。」
やっぱり馴れ馴れしくなってる。
わたしは椅子に座ったまま、うろうろ歩いて名前を考えているらしい彼を見やる。
見ているうちに彼は何かを思いついたようだった。
「……ハルカ。」
「え?」
「そうしよう、君の名前はハルカだ。」
彼の中で、わたしはハルカに決定してしまったらしい。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
わたしは思わず声を上げる。
「嫌かい?」
「別に嫌ってワケじゃないけど……。」
自分の名前が何なのかくらい知りたいのだ。
由来とか、それを付けた理由とか。
そう言うと、彼はさらりと言ってのけた。
「春の華、それが君の名前の意味だ。」
「で、そう名付けた理由は?」
「エネコはピンク色だから。」
彼は何故か得意げに言う。
「春に同じ色の花が沢山咲く。だから、ハルカ。」
「……安直かも。」
「それにぼくとお揃いだし。」
どうして彼がわたしとお揃いにしたがるのだ。
「ぼくはシュウ。季節の秋と書いてシュウ。」
彼は椅子に座ったわたしのすぐ傍までやって来る。
わたしに右手を差し出してきた。
「……何?」
わたしはワケが分からなくて彼の顔を見上げる。
「人間の挨拶だよ。これからよろしくっていう。」
「どういう意味?」
「君、記憶喪失だし、ポケモンだから人間の常識ないし、どこかへ行く当てもないんだろう?ここに住むといい。」
「……。」
彼はわたしを住まわせてくれるらしい。
さっきまでポケモンだということすら信じてくれなかったのに。
「何だい、その目は。」
「……信用できないかも。」
「かもというのが口癖なのかい?」
突っ込むのはそこ?
「別にやましいことなんて考えてないよ。」
彼は差し出した手を上げる。
彼に頭を撫でられるのはこれで三度目だ。
「君となら一緒に住んでもいいかなって思っただけさ。ぼくは一人暮らしだから、この家ももう一人くらい住む余裕あるし。」
彼が微笑む。
「ね?ぼくと一緒に暮らしてみないかい?」
「……別にいいけど。」
どこかへ行く当てなんて、彼の言う通り全く無いし。
彼はわたしの右手を取る。
「握手っていうのは、相手と右手を握り合うんだよ。」
そして、右手を握ってきた。
「よろしく、ハルカ。」
「……よろしく、シュウ。」
わたしはシュウの右手を握り返した。